安心問答ノート

浄土真宗のことで調べたこと、学んだことの備忘録

信罪福心とは

信罪福心ーしんざいふくしん

罪福を信ずる心。罪悪を作れば悪趣に堕ちる、福徳を積めば善処に生ずるという善因善果 悪因悪果の道理を信ずる心。いわゆる因果の道理を信じる心。
根拠

もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。(仏説無量寿経下巻)

http://goo.gl/ECzpA

以下は、
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120109/1326058941
より引用。

「自分が善ができるかできないか」「善のできる自己と知らされているか知らされていないか」「自惚れているから自惚れていないか」は、どれも自らの救いを、自らの問題として考えているからでてくる言葉だと思います。


そのような考えを自力の心ともいいますが、信罪福心とも言われます。

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。(教行信証化土巻・浄土真宗聖典(註釈版)P399)

http://goo.gl/jVyTt

この「罪福を信ずる心」が、信罪福心です。罪福とは、結果の上からいったことで、因からいえば罪は悪、福は善になります。自らの善悪の行為の結果が福や罪を生ずると信じる心です。

別の言葉でいえば、自分が救われないのはなぜかということを自己の中に問題にするのが「信罪」の心です。どうすれば自分は救われるのかということを自己の中にあると考えるのが「信福」の心です。
この信罪福心をもったまま本願を聞こうとする人は浄土往生はできないと、誡疑讃に度々親鸞聖人は書かれています。

(60)
不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

(62)
罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

(81)
仏智の不思議を疑惑して
 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば
 胎生といふとときたまふ(誡疑讃)

信罪福心では、往生できないといわれた、御消息のお言葉

しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり。(御消息6)

http://goo.gl/Mppoz


以下は、
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120109/1326058941
より引用。

なぜ、信罪福心をもったままではいけないのかといえば、仏願の生起本末と合わないからです。
仏願の「生起」とは、なぜ阿弥陀仏が本願を建てられたのかということです。それについて歎異抄9章から、引用します。

しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。( 歎異抄9章・浄土真宗聖典(註釈版)P837)

http://goo.gl/Ul53s

阿弥陀仏がすでに煩悩具足の私だとご覧になって、大慈悲をもって本願を建てられました。私がなぜ救われないのか(信罪の心)であれこれ考えていることは、阿弥陀仏が本願を建てるさいにすでにご存知のことです。「善のできない自己としらされていないからではないか」「自惚れているからではないか」とあれこれ考えることは、すでに本願の上に阿弥陀仏が私より先手をうって考えられたことです。


次に仏願の「本末」は、阿弥陀仏が煩悩具足の私を救おうと五劫思惟の願と兆載永劫の行をされた、その願行とその結果成就した南無阿弥陀仏を言われます。ですから、「どうすれば私は救われるか(信罪の心)」という問題も、すでに阿弥陀仏が私より先手を打って解決されているのです。

発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。(教行信証行巻・浄土真宗聖典(註釈版)P170)

http://goo.gl/zaUwW

私が浄土往生するための行は、阿弥陀如来がすでに願いをおこされて私に与えてくださるものです。ここで「如来すでに発願して」と仰っているように、阿弥陀仏の本願はすでに「衆生の行を廻施したまふ」ことになっております。


このように阿弥陀仏の本願の上ですでに、「なぜ私が助からないのか」とか「どうすれば浄土往生できるのか」という問題は解決が済んでいます。その本願の上での問題を、自分の問題として一生懸命取り組んでいるのが信罪福心です。結果として、阿弥陀仏の本願をはねつけていることになるので、自力の心と言われます。

「こうしなければ救われない」とか、「こうすれば救われるだろう」という問題は、私の問題ではありません。阿弥陀仏の本願の上ですでに先手を打ってあることですから、ただ今救うの本願を、そのままただ今聞いて下さい。

御一代記聞書には

罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり、われとしてはからふべからず。ただ信心肝要なり (御一代記聞書35)

http://goo.gl/NXOgp