安心問答ノート

浄土真宗のことで調べたこと、学んだことの備忘録

無眼人・無耳人とは

無眼人(むげんにん)※真宗新辞典P480を参照
本願を信じない人、眼のない人に喩える。易往・易行の念仏のほうがすでに与えられていても、よしなき邪見の心や、自力心のために正法にあえない人のことを言う。
「返って九十五種の邪道に事ふ、我是の人を説きて眼無き人と名く、耳無き人と名く」

このゆゑにわれ説く、《無量寿仏国は往きやすく取りやすし。 しかるに人修行して往生することあたはず、かへりて九十五種の邪道に事ふ》と。 われこの人を説きて無眼人と名づけ、無耳人と名づく〉」と。(安楽集_上巻・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P244)

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上記を、行文類に引文

またいはく(安楽集・上 二四四)、「また『目連所問経』のごとし。〈仏、目連に告げたまはく、《たとへば万川長流に草木ありて、前は後ろを顧みず、後ろは前を顧みず、すべて大海に会するがごとし。世間もまたしかなり。豪貴富楽自在なることありといへども、ことごとく生老病死を勉るることを得ず。ただ仏経を信ぜざるによりて、後世に人となつて、さらにはなはだ困劇して千仏の国土に生ずることを得ることあたはず。このゆゑにわれ説かく、“無量寿仏国は往き易く取り易くして、人、修行して往生することあたはず、かへつて九十五種の邪道に事ふ”と。われこの人を説きて眼なき人と名づく、耳なき人と名づく》〉と。経教すでにしかなり。なんぞ難を捨てて易行道によらざらん」と。{以上}(行文類_浄土真宗聖典(註釈版)P163)

http://goo.gl/WTTOJ

(現代語訳)

(23) また次のようにいわれている(安楽集)。
 「また、『目連所問経』に<世尊は目連に、«たとえば、長い川の流れに漂う草木は、前のものが後のものを気にかけることもなく、後のものが前のものを気にかけることもなく、すべて大海に流れこむようなものである。世間のありさまもその通りで、身分が高く豊かで何不自由ないものでも、すべてのものはみな生老病死の苦を免れることはできない。どのようなものでも、仏法を信じなかったなら、後の世に人間に生まれても、さらに苦しみがきわまることになり、千の仏が出られる尊い国に生れることはできない。そこで、わたしは“無量寿仏の国は往生しやすくさとりやすいのに、人々は念仏の行を修めて往生するということができない。逆に、九十五種の外道に仕えている”と説くのである。わたしはこういう人を、真実を見る目がない人といい、真実を聞く耳がない人という»と仰せになった>と説かれている通りである。
 経典にはすでにこのように説かれている。どうして、難行道を捨てて易行道によらないのであろうか」

http://goo.gl/pyRDr

※原文の「目連所聞経」にはみあたらないが、引文されている。

(90)
大聖易往とときたまふ
 浄土をうたがふ衆生をば
 無眼人とぞなづけたる
 無耳人とぞのべたまふ(浄土和讃

そのゆゑは、釈迦如来のみことには念仏するひとをそしるものをば「名無眼人」と説き、「名無耳人」と仰せおかれたることに候ふ。(御消息上_27・浄土真宗聖典(註釈版)P787)http://goo.gl/cGXWp

第二十七通は、諸神軽視造悪無碍を誡め、またそれを口実として念仏者を弾圧する在地権力者がいるが、そうした権力者に対しては憐れみをもって念仏して彼らをたすけよと諭されている。http://goo.gl/LVu9C

修行せず行せずしていたづらに是非を論ぜば、たとへば目しゐたるひとのいろの浅深を論じ、耳しゐたるひとのこゑの好悪をたださんがごとし。(帖外御文)