安心問答ノート

浄土真宗のことで調べたこと、学んだことの備忘録

劫とは

劫ーこう

梵語でkalpa(劫波)の音略。長い時間と訳する。

インドでは通常これを梵天の一日とし、人間世界のの4億3200万年とするが、実際は仏教で数がとても数えられないくらい非常に長い年月のことを指す。

浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)では、安楽集にいくつか根拠が出されている。

1.芥子劫と磐石劫

【25】 第二に劫の大小を明かすとは、『智度論』(意)にいふがごとし。 「劫に三種あり。いはく一には小、二には中、三には大なり。 方四十里のごとき城あり、高下もまたしかなり。 なかに芥子を満てて、長寿の諸天ありて三年に一を去り、すなはち芥子尽くるに至るを一小劫と名づく。 あるいは八十里の城あり、高下もまたしかなり。 芥子をなかに満てて、前のごとく取り尽すを一中劫と名づく。 あるいは百二十里の城あり、高下もまたしかなり。 芥子をなかに満てて取り尽すこと、もつぱら前の説に同じきをまさに大劫と名づく。 あるいは八十里の石あり、高下もまたしかなり。 一の長寿の諸天ありて、三年に天衣をもつて一たび払ふ。 天衣の重さ三銖*1なり。 払ふことをなすこと已まず、この石すなはち尽くるを名づけて中劫となす。 その小石・大石前の中劫に類す、知るべし」と。 労はしくつぶさに述べず。(安楽集・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P235)

http://goo.gl/y5jqw

まとめると、小劫、中劫、大劫の3種類がある。

芥子劫

小劫…四十里四方の城をケシ粒で満たし、三年に一度天人が一粒ずつ芥子粒を城から取り出し、城の中のケシ粒がなくなるまでの時間。
中劫…八十里四方の(同上)
大劫…百二十里四方の(同上)

磐石劫(または仏石劫)

小劫…四十里四方の石があり、それを三年に一度天人がその衣で石を払う。衣の重さは、三銖(約2グラム)。その石が摩滅してなくなるまでの時間。
中劫…八十里四方の(同上)
大劫…百二十里四方の(同上)

2.三千塵点劫

『経』(法華経・意)にのたまはく、「総じて三千大千世界の大地を取りて、磨りてもつて墨となす。 仏のたまはく、〈この人千の国土を過ぎてすなはち一点を下さん。 大きさ微塵のごとし。 かくのごとく展転して、地種の墨を尽す〉と。 仏のたまはく、〈この人の経るところの国土、もし点ずると点ぜざると、ことごとく末きて塵となし、一塵を一劫とするに、かの仏の滅度よりこのかた、またこの数に過ぎたり〉と。 (安楽集・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P239)

http://goo.gl/ZF9IC

まとめると、三千大世界のすべての物を、すりつぶして墨とする。その墨汁を一千国土をすぎるごとにほんの僅かに一点下していき、それがなくなるまで繰り返した国土をみな塵とする。その一塵を、一劫として数えた劫数を三千塵点劫という。

(55)
弥陀成仏のこのかたは
 いまに十劫とときたれど
 塵点久遠劫よりも
 ひさしき仏とみえたまふ(浄土和讃・浄土真宗聖典(註釈版)P566)

http://goo.gl/Uz1Aw

3.倶舎論巻12からの定義

倶舎論より 

  1. 壊劫…二十中劫
  2. 成劫…二十中劫
  3. 中劫…人間の寿命が八万歳からスタートして、百年ごとに一歳縮まっていき、十歳になるまでの間。また反対に十歳からスタートして、百年ごとに一歳増加して八万歳になるまでの間。約800万年
  4. 大劫…成住壊空の八十中劫の総称

壊劫(二十中劫)は、最初の十九中劫で有情を壊し、次の一中劫で器界*2を壊す(壊滅・壊)
次の、二十中劫は虚空(空無・空)
次の、成劫は二十中劫で世界を生成。虚空状態から一中劫で器界を成じ、次の十九中劫で有情を成る。(成)
次の、住劫(二十中劫)は、器界(世界)が存続。(住)
住劫(二十中劫)の内訳と中劫の単位
住劫の最初一中劫は、人間の寿命が八万歳からスタートして、百年ごとに一歳縮まっていき、十歳になるまでの間をいう。寿命が減っていくのでこれを減劫という。
その次の一中劫は、寿命が十歳からスタートして、百年ごとに一歳増えてき、八万歳になるまでの間。寿命が増えるので増劫という。
そのあとは、同じように、一中劫ごとに八万歳→十歳→八万歳を合計二十中劫繰り返す。

以上の、成住壊空の4つが各二十中劫なので合計八十中劫。
大劫は、この成住壊空の八十中劫の総称。

ほか

安楽集より

華厳経』(意)によるにのたまはく、「娑婆世界の一劫は極楽世界の一日一夜に当る。 極楽世界の一劫は袈裟幢世界の一日一夜に当る。 かくのごとく優劣あひ望むるに、すなはち十阿僧祇あり」と。(浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P218)

http://goo.gl/dT9g8

 第二に問ひていはく、無始劫よりこのかた六道に輪廻して無際なりといふといへども、いまだ知らず、一劫のうちにいくばくの身数を受くるを流転といふや。
答へていはく、『涅槃経』(意)に説きたまふがごとし。 「三千大千世界の草木を取りて、截*3りて四寸の籌となして、もつて一劫のうちに受くるところの身の父母の頭数を数へんに、なほおのづから澌きず」と。 あるいはのたまはく(同・意)、「一劫のうちに飲むところの母の乳は四大海水よりも多し」と。 あるいはのたまはく(同・意)、「一劫のうちに積むところの身骨は毘富羅山のごとし」と。 かくのごとく遠劫よりこのかた、いたづらに生死を受くること今日に至りて、なほ凡夫の身となる。 なんぞかつて思量して傷歎して已まざらんや。(安楽集・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P238)

http://goo.gl/XsHjt

信罪福心とは

信罪福心ーしんざいふくしん

罪福を信ずる心。罪悪を作れば悪趣に堕ちる、福徳を積めば善処に生ずるという善因善果 悪因悪果の道理を信ずる心。いわゆる因果の道理を信じる心。
根拠

もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。(仏説無量寿経下巻)

http://goo.gl/ECzpA

以下は、
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120109/1326058941
より引用。

「自分が善ができるかできないか」「善のできる自己と知らされているか知らされていないか」「自惚れているから自惚れていないか」は、どれも自らの救いを、自らの問題として考えているからでてくる言葉だと思います。


そのような考えを自力の心ともいいますが、信罪福心とも言われます。

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。(教行信証化土巻・浄土真宗聖典(註釈版)P399)

http://goo.gl/jVyTt

この「罪福を信ずる心」が、信罪福心です。罪福とは、結果の上からいったことで、因からいえば罪は悪、福は善になります。自らの善悪の行為の結果が福や罪を生ずると信じる心です。

別の言葉でいえば、自分が救われないのはなぜかということを自己の中に問題にするのが「信罪」の心です。どうすれば自分は救われるのかということを自己の中にあると考えるのが「信福」の心です。
この信罪福心をもったまま本願を聞こうとする人は浄土往生はできないと、誡疑讃に度々親鸞聖人は書かれています。

(60)
不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

(62)
罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

(81)
仏智の不思議を疑惑して
 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば
 胎生といふとときたまふ(誡疑讃)

信罪福心では、往生できないといわれた、御消息のお言葉

しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり。(御消息6)

http://goo.gl/Mppoz


以下は、
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120109/1326058941
より引用。

なぜ、信罪福心をもったままではいけないのかといえば、仏願の生起本末と合わないからです。
仏願の「生起」とは、なぜ阿弥陀仏が本願を建てられたのかということです。それについて歎異抄9章から、引用します。

しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。( 歎異抄9章・浄土真宗聖典(註釈版)P837)

http://goo.gl/Ul53s

阿弥陀仏がすでに煩悩具足の私だとご覧になって、大慈悲をもって本願を建てられました。私がなぜ救われないのか(信罪の心)であれこれ考えていることは、阿弥陀仏が本願を建てるさいにすでにご存知のことです。「善のできない自己としらされていないからではないか」「自惚れているからではないか」とあれこれ考えることは、すでに本願の上に阿弥陀仏が私より先手をうって考えられたことです。


次に仏願の「本末」は、阿弥陀仏が煩悩具足の私を救おうと五劫思惟の願と兆載永劫の行をされた、その願行とその結果成就した南無阿弥陀仏を言われます。ですから、「どうすれば私は救われるか(信罪の心)」という問題も、すでに阿弥陀仏が私より先手を打って解決されているのです。

発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。(教行信証行巻・浄土真宗聖典(註釈版)P170)

http://goo.gl/zaUwW

私が浄土往生するための行は、阿弥陀如来がすでに願いをおこされて私に与えてくださるものです。ここで「如来すでに発願して」と仰っているように、阿弥陀仏の本願はすでに「衆生の行を廻施したまふ」ことになっております。


このように阿弥陀仏の本願の上ですでに、「なぜ私が助からないのか」とか「どうすれば浄土往生できるのか」という問題は解決が済んでいます。その本願の上での問題を、自分の問題として一生懸命取り組んでいるのが信罪福心です。結果として、阿弥陀仏の本願をはねつけていることになるので、自力の心と言われます。

「こうしなければ救われない」とか、「こうすれば救われるだろう」という問題は、私の問題ではありません。阿弥陀仏の本願の上ですでに先手を打ってあることですから、ただ今救うの本願を、そのままただ今聞いて下さい。

御一代記聞書には

罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり、われとしてはからふべからず。ただ信心肝要なり (御一代記聞書35)

http://goo.gl/NXOgp

無眼人・無耳人とは

無眼人(むげんにん)※真宗新辞典P480を参照
本願を信じない人、眼のない人に喩える。易往・易行の念仏のほうがすでに与えられていても、よしなき邪見の心や、自力心のために正法にあえない人のことを言う。
「返って九十五種の邪道に事ふ、我是の人を説きて眼無き人と名く、耳無き人と名く」

このゆゑにわれ説く、《無量寿仏国は往きやすく取りやすし。 しかるに人修行して往生することあたはず、かへりて九十五種の邪道に事ふ》と。 われこの人を説きて無眼人と名づけ、無耳人と名づく〉」と。(安楽集_上巻・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P244)

http://goo.gl/Cj9Lu

上記を、行文類に引文

またいはく(安楽集・上 二四四)、「また『目連所問経』のごとし。〈仏、目連に告げたまはく、《たとへば万川長流に草木ありて、前は後ろを顧みず、後ろは前を顧みず、すべて大海に会するがごとし。世間もまたしかなり。豪貴富楽自在なることありといへども、ことごとく生老病死を勉るることを得ず。ただ仏経を信ぜざるによりて、後世に人となつて、さらにはなはだ困劇して千仏の国土に生ずることを得ることあたはず。このゆゑにわれ説かく、“無量寿仏国は往き易く取り易くして、人、修行して往生することあたはず、かへつて九十五種の邪道に事ふ”と。われこの人を説きて眼なき人と名づく、耳なき人と名づく》〉と。経教すでにしかなり。なんぞ難を捨てて易行道によらざらん」と。{以上}(行文類_浄土真宗聖典(註釈版)P163)

http://goo.gl/WTTOJ

(現代語訳)

(23) また次のようにいわれている(安楽集)。
 「また、『目連所問経』に<世尊は目連に、«たとえば、長い川の流れに漂う草木は、前のものが後のものを気にかけることもなく、後のものが前のものを気にかけることもなく、すべて大海に流れこむようなものである。世間のありさまもその通りで、身分が高く豊かで何不自由ないものでも、すべてのものはみな生老病死の苦を免れることはできない。どのようなものでも、仏法を信じなかったなら、後の世に人間に生まれても、さらに苦しみがきわまることになり、千の仏が出られる尊い国に生れることはできない。そこで、わたしは“無量寿仏の国は往生しやすくさとりやすいのに、人々は念仏の行を修めて往生するということができない。逆に、九十五種の外道に仕えている”と説くのである。わたしはこういう人を、真実を見る目がない人といい、真実を聞く耳がない人という»と仰せになった>と説かれている通りである。
 経典にはすでにこのように説かれている。どうして、難行道を捨てて易行道によらないのであろうか」

http://goo.gl/pyRDr

※原文の「目連所聞経」にはみあたらないが、引文されている。

(90)
大聖易往とときたまふ
 浄土をうたがふ衆生をば
 無眼人とぞなづけたる
 無耳人とぞのべたまふ(浄土和讃

そのゆゑは、釈迦如来のみことには念仏するひとをそしるものをば「名無眼人」と説き、「名無耳人」と仰せおかれたることに候ふ。(御消息上_27・浄土真宗聖典(註釈版)P787)http://goo.gl/cGXWp

第二十七通は、諸神軽視造悪無碍を誡め、またそれを口実として念仏者を弾圧する在地権力者がいるが、そうした権力者に対しては憐れみをもって念仏して彼らをたすけよと諭されている。http://goo.gl/LVu9C

修行せず行せずしていたづらに是非を論ぜば、たとへば目しゐたるひとのいろの浅深を論じ、耳しゐたるひとのこゑの好悪をたださんがごとし。(帖外御文)